元気モリモリもりもっちゃん・四條畷市会議員/森本勉公式サイト

楠正行〔まさつら〕公=小楠公ゆかりの地へ日帰りドライブ

30日に行われました楠正行シンポジウムに触発され、以前に行ったところですが小楠公ゆかりの地を2か所訪れました。四條畷市を出て、第2京阪道を利用して大東鶴見ICからは近畿道・阪和道・南阪奈道路と乗り継ぎ、葛城インターからは山麓線で御所へ。24号線に入ってすぐに京奈和道〔無料!〕で五條市に。ここまで1時間。168号線を南へ20分あまりの山間の集落が賀名生〔あのう〕です。ここは梅の名所ですが、すっかり桜の山に変わっていました。

untitled untitled untitled untitled

1336年5月25日、湊川の戦いで楠正成が壮絶な討ち死にをし、足利軍は6月に京都へ入ります。後醍醐天皇は比叡山に逃れますが、その後に三種の神器を渡して和睦。花山院に幽閉されます。その年の暮れに天皇は花山院を脱出されたのを楠正行公らは河内で迎えられました。合流した一行が向かった先が賀名生です。今では車で五條からすぐですが、当時は大変な難儀の道だったでしょう。結局短い滞在のあと吉野へ向かわれるわけですが、後醍醐天皇と正行公はここでどのようなお話をされたのでしょう。後には南朝方の行宮〔御所〕が置かれた賀名生には御所跡の一部として当時からの堀家〔重要文化財〕が残っています。その場所から小高い丘に登ったところに北畠親房の墓があります。

untitled untitled untitled

武士を蔑視し、楠正成公や正行公に無謀とも思える出撃を命じた人。その墓の下に「二百十人塚」があります。これは1491年に西俊・珍阿という二人が本願となって、郷土の忠臣の魂を鎮めるために立てた石塔です。付属の碑文には、賀名生の二百十人が南朝のために1348年の四條畷の戦いなどに出征したと記されていて、なおさら縁を感じるものです。

untitled untitled untitled

賀名生をあとにして、五條から410号線で河内長野市へ。以前走ったときとは見違えるように道路が整備されていました。ゆっくり走ったので小一時間で観心寺に到着。役の行者〔えんのぎょうじゃ〕によってひらかれたと伝えられる古刹です。寺に入りますと昨日シンポジウムにお越し頂いた住職さんとそっくりな若い僧侶がおられましたので、お世話になった四條畷市の議員ですと挨拶しますと、今御住職は法要中とのこと。多分ご子息様でしょう。それはそれはご苦労様ですと、お寺のご案内をして下さいました。

untitled untitled

この寺は楠家の菩提寺でもあります。湊川の戦いで討ち取られた正成公の首は、敵とはいえ正成公を尊敬していた足利尊氏から観心寺に送り届けられました。首を迎えた長男の正行公は自害して父の後を追おうとしましたが、母親は、お前の命は天皇様にささげた物。父上の遺訓を守り天皇様のために戦い抜くことが本分である旨を諭し、正行公は自害を思いとどまりました。境内には正成公の首塚〔お墓〕があり丁寧に祀られています。観心寺はその後、1348年四條畷の戦いで正行公らが戦死されたあとの1359年に後村上天皇〔後醍醐天皇の御子・義良親王〕の行在所〔仮の御所〕となりました。寺の上には後村上天皇の御陵〔桧尾陵〕があります。

untitled untitled untitled

また寺の伝承では808年に空海がこの寺を訪れ、北斗七星を勧進したといいまして、これにちなむ7つの「星塚」が現在も境内に残っています。この塚を一巡すると幸福になれるとのことでしたので順番にお参りしました。なお、北斗七星を祭る寺は日本では観心寺ただ一つだそうです。

untitled untitled untitled untitled untitled untitled untitled untitled

寄進されたお酒も大楠公。午後五時に山門が閉じられました。大楠公の銅像にお別れをして170号線・外環状線を北上。途中買い物をして四條畷市には午後7時頃に帰着しました。次は建水分神社〔たけみくまり神社〕と吉野の如意輪寺に行こうかな。歴史に触れられる手軽な日帰りドライブでした。

untitled untitled

森本勉市政事務所

TEL.072-863-1050 FAX.072-813-9030
所在地.〒575-0023 大阪府四條畷市楠公1-9-1

市民相談は毎日お受けいたしております

Return Top