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教育と序列化の考え方について

学力テストの成績を公表することは、子供を序列化することで、良くないという議論がある。無論、子供を不用意に序列化することは、子供たちの心を傷つけるという点で好ましくないことは言うまでもない。しかし、一切の序列化を排除することは、本当に子供たちの将来にとって、有用なことなのであろうか。現実社会は、序列が厳として存在する。その競争社会の中で、すべての子供達も生きていかなくてはならない。いつから、例えば、何歳になったら、その現実を教えて良いのであろうか。小学や中学の義務教育年齢において教えてはならない現実社会のルールなのだろうか。そのような素朴な疑問が生まれるのである。

教育とは、知育、体育、徳育の三者が一体となって成立するものであることは議論の余地のないところである。また、徳育とは、単に道徳教育のみを指すものでなく、一言で言えば、人間性の向上を目指す、すべての教育活動が含まれるものである。例えば、朝、教室に入れば、「おはよう」と言う。廊下をすれ違うときにお辞儀をする。食事時のマナー、授業の初めと終わりのけじめ、身だしなみなど。このような所作も含めて教育であるという認識。この点の認識を確認しておかないと議論は前に進まない。

前記認識が共有できたとして、もう一つ確認しておかねばならない。平等という認識である。人は等しく尊敬されるべき存在であると私は信じているし、その価値に軽重などないと思っている。言い換えれば、全ての人は生命の次元において平等であると言えるであろう。しかし、餅は餅屋にということわざがあるように、人には個性があり、向き不向きというものもある、好き嫌いということもある。適性ということもある。それ故に、ある青年は、自分の目指す職業に就くことができないかもしれない。しかし、その現実を受け入れ、許される環境の中で健気に努力する青年を私は、尊敬する。それが、社会人としての健全な生き方であるからだ。

さて、学力テスト結果の公表についての問題に移ろう。

学力テストの結果を公表するということは、子供たちを序列化し公表することにつながるかもしれない。しかし、学力という部分のみの序列化であって、全人格、人間としての価値を序列化するような行為ではない。学校教育において、学力は重要な要素である。また、今後世界を相手に戦い抜く国民を育てていくという教育の重大性を考えれば、学力の低下は、国家の存亡を左右する重大問題である。国家100年の計は教育にあり。故に、学力テストの結果を公表し、教育現場に刺激を与えるべきであるという発想を支持するのである。その反対理由が、子供の序列化につながる。それでは、理由にならないのではないか。子供たちの全人格を序列化するものではない。もし、学力テストの結果を公表することについて序列化が起こったとしても、それは、単に、学力についてのみのことではないか。それで、人間的価値が下がるものではない。本来教育というものは、知育のみに偏重するものではなく、勉強のできる子供も、あまり得意でない子供も、それぞれに個性を認め、将来への夢と希望と、強く生きるための技術を教える場であるはずだ。

PTAの調査によると、多くの親御さんが、学力テスト結果公表には反対の意思であることは、世論という点で尊重しなければならない。しかし、その背景に、教育現場そのものが、学力偏重つまり、知育のみに偏った考えに支配されているということを示すものではないのか。学力が劣る子は、差別されるのではないか。そのような恐怖感が、あるのではないか。

教育現場では、学力の優れている子は、その努力を賞賛されなければいけないが、あまり得意でない子供にも、その子の優れた点を見つけ出し、その子の持つ長所を最大限に伸ばしてあげる努力が必要である。運動会や体育祭、文化祭などは、学力以外の能力の発揮する場であるし、校外においてもその活動が、有益で、本人が情熱を傾けるものである場合は、賞賛されてしかるべきである。しかし、現実には、画一的な評価にとどまり、子供の個性に注目できない教師が増えているということに問題がるのではないか。

学力テスト結果を、公表することは、序列化が目的ではなく、教育成果を評価されることなく、惰性に流れている学校組織や、教育者に刺激を与えることが目的であるにもかかわらず、この問題に因る反響が、子供の序列化につながるという理由で拒否されることについて、現在の教育現場が、いかに画一的な方法論によって運営されているかという証左ではないのかという危機感を持つのである。

本来の教育とは、子供の個性に着目し、その長所を最大限に伸ばし、育成するという重大な使命がある。その多種多様で素晴らしい個性は、画一的な評価の中では、埋没してしまう。その点が、現代の教育の最大の問題点ではないのか。

その原因は、教師の中にはびこる誤れる平等意識である。生徒に答案を書かせれば、必ず、一番からビリまでの序列がつくのである。その点数が、全て同じということはありえないのである。しかし、その一点のみで、人の価値が、決まることはない。これをしっかりと、教えることが、平等教育である。点数を隠すことが、あるいは、子供たちに点数を教えないことが、平等を教えることになるのであろうか。それよりも大事な事は、今回の成績は悪かったとしても次に、頑張れば良い結果を望むことができる。あるいは、成績が悪いからといって、劣等感を持つ必要などないと、励まし、その子の長所を示し、努力の大切さと誇りを授けるのが本来の教育のあり方であり、徳育というものである。

結局、学力テストの公表についての議論が、子供たちの序列化につながるという結論に至るのは、現在の教育現場が、教育本来の使命を放棄し、画一的な評価のみに終止する結果、極論すれば、教師の怠慢により現出した事態ではないのか。そのような危惧を感じるものである。

これは、教育の根幹に関わる問題であり、簡単に結論を出してはいけないし、出せるものではないと思う。よって次のような問題提起をし、今後も議論を続けていく必要がるのではないかという主張をしたい。

l  平等とは何か

l  子供の個性に注目しているか

l  能力の評価とは

l  人間はどのような価値観に基づき評価されるべきか

最後にまとめとして、主張したい。

本来、子供たち、あるいは、少年、青年の特権は、無限の可能性を持っていることである。若いというだけで、大いなる可能性を持っているのである。故に、絶望させてはならないのであり、同時に怠惰に過ごす少年期青年期であってはならないと知ることが大事なのである。

子供たちとは、希望の中に生き、希望と共に成長するものである。これは、偽善ではない。現在の、成功者の中で、どれほどの人が優等生であっただろうか。学力だけで、人生が決まるなどということは絶対にない。しかし、現実から逃避し、ただ単に夢だけを追い、その夢が叶わないことに愚痴をいう人間で、成功した人がひとりでもいるのだろうか。少なくとも、現実の困難に直面しても強く生きてこそ、夢を実現できるものではないのだろうか。大事なことは、現実を受け入れ困難から逃げないことを知る人は強いということだけは確実に言える。故に、学力テストの公表を恐れるような社会であって良いのか。そのような学校であって良いのか。教育者と呼ばれる方々に真剣に考えていただきたい問題である。子供たちは無限の可能性を全員が持っている。そのことを自覚したならば、偉大なる希望と、強靭な力を子供たちは発揮することができるのである。この原理は、すべての子供達に平等に与えられた権利であることは、議論の余地のない現実である。その夢と希望が、我々の未来を決定するのである。

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